Share

27話 昨日のお礼

last update Last Updated: 2025-02-09 08:22:20

 ガラガラと走り続ける辻馬車の中で、イレーネは窓から外の景色を上機嫌で眺めていた。

「もうすぐ、私はこの町に住むことになるのね……1人で行動できるように道を覚えておかなくちゃ。フフフ……それにしても夢みたいだわ。田舎者の私がこんな大都会で暮らすことになるなんて。本当にリカルド様とルシアン様には感謝をしないと」

イレーネの心はこれからの新生活に浮き立ち……駅に辿り着く迄の間、ずっと窓の外を注視し続けるのだった。

 馬車が駅前広場に到着したのは9時半を過ぎていた。

「どうもありがとうございました」

御者に馬車代、1500ジュエルを支払うとイレーネは駅前に降り立つ。

「昨日も感じたけど、土ぼこりが立たない町というのは新鮮ね。おかげで、お借りしたドレスが汚れなくて済むもの」

イレーネは自分の着ているドレスを見ると、次に手帳を取り出した。ここには時刻表が記されている。昨日この駅に降り立った時に、彼女が事前に時刻表をメモしておいたのだ。

「今が9時半だから……次の汽車まで後1時間くらいあるわね……どこかでお昼でも買っておこうかしら……あら? あの方は……?」

噴水前で、昨日イレーネをマイスター家まで連れて行ってくれた青年警察官が年老いた老人に道を教えている姿が目に入った。

「そうだわ、折角なので昨日のお礼を伝えましょう」

そこでイレーネは少し離れた場所で、道案内が終わるのを待つことにした。

やがて老人は道が分かったのか、お辞儀をすると背を向けて去って行く。

「道案内が終わったようね」

すると、青年警察官の方がイレーネの視線に気付いた様子で近付いてきた。

「あの……もしやあなたは……?」

「こんにちは、お巡りさん。昨日はお仕事中なのに、私をマイスター伯爵家まで連れて行っていただき、心より感謝いたします」

笑顔で挨拶するイレーネ。

「ああ、やっぱりあなただったのですね。見事なブロンドの髪だったので、もしやと思ったのですが。もしかして、今から帰るのですか?」

「はい、そうです。でも、2日後にはここに戻ってまいりますが」

「え? そうなのですか?」

その言葉に目を丸くする警察官。

「はい。私、この町で暮らすことが昨日決まったのです。なので、これからまたどこかでお世話になることがあるかもしれませんね? その時はまたどうぞよろしくお願いいたします。お巡りさん」

「そうですね。困ったことが
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   28話 幼馴染と婚約者候補

     汽車に乗って3時間後――『コルト』の駅に降り立ったイレーネ。「今の時刻は13時半ね……ルノーは弁護士事務所にいるかしら?」イレーネは屋敷を処分する法的手続きをルノーに頼もうと考えていたのだ。「ルノーがいなくても、誰かしらいるかもしれないものね。とりあえず訪ねてみましょう」そしてイレーネは豆が出来た足を引きずるように、ルノーが勤務する弁護士事務所に向かった――**** 駅から大通りを歩いて10分程の場所にルノーが勤務する弁護士事務所はあった。イレーネは扉の前に立つと、早速ノックをした。――コンコン「はい、どちら様でしょうか? え!? イレーネ!?」扉を開いたのは偶然にもルノーだった。「まぁ、ルノー。丁度良かったわ。あなたに頼みたいことがあったのよ」笑みを浮かべる。「イレーネ、な、何故ここに……!? いや、それよりも一体昨日はどうしたんだ? 仕事の終わった後、君の家に行っても留守だったじゃないか。あのとき、どれだけ俺が驚いたと思っているんだ?」ルノーは余程心配していたのか、矢継ぎ早に質問してくる。「待って、落ち着いてちょうだい。ルノー、実はあなたにお願いしたいことがあるのよ」「お願い? 俺に?」「ええ、実は……」その時――「ルノー。誰かお客様なの?」部屋の奥で声が聞こえ、ウェーブのかかったブラウンの髪の若い女性が現れた。「あ! クララ……」ルノーがうろたえた様子で女性の名を呼ぶ。クララと呼ばれた女性はイレーネを見ると眉をひそめて話しかけてきた。「あの、失礼ですがどちら様ですか? ここはジョンソン弁護士事務所ですけど? お客様でしょうか?」「い、いや。彼女は……客ではなく……」「はい、客です。本日は幼馴染のルノーに用事があって、訪ねました」言葉を濁すルノーに代わり、イレーネが返事をする。「え……? 幼馴染……? まさか、あなたはイレーネ・シエラ様ですか?」「はい、そうです。もしかしてルノーから私の話を聞いているのですか?」笑顔でクララに尋ねるイレーネ。「ええ、少しだけなら。……そうですか。あなたがあの、イレーネ様なのですね。それで、一体今日はルノーに何の用があるのですか?」「はい、それは……」そこへルノーが二人の間に割って入ってきた。「イレーネ、実は今急ぎの仕事で忙しいんだ。また今度にしてもらってもい

    Last Updated : 2025-02-10
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   29話 幼馴染への頼み

    14時過ぎにイレーネは自分の屋敷に到着した。「やっぱり、馬車を使うと楽ね~。だけど、こんなに贅沢したら今にバチが当たってしまいそうだわ」質素倹約を心がけているイレーネにとって、馬車を使うことはとても贅沢なことであり、後ろめたい気分にもさせてしまう。「でも、これは足の裏に出来た豆のせい……そう、やむを得ずのことよ」イレーネは自分にそう言い聞かせると扉を開けて屋敷の中へ入り、早速荷造りの準備を始める為に自室へ向かった。「とりあえず、まずはこの服を着替えなくちゃね。片付けの最中に汚したり、破いたりしたら大変だもの。きっと今の私には弁償も出来ないくらい高級ドレスに違いないものね」そこでイレーネは衣装箱から自分の粗末な服を取り出すと、早速着替えを始めた――**日が暮れ始めた頃――「ふぅ……荷造りはこんなものかしら?」荷造りを終えたイレーネは椅子に腰掛けると、ため息をついた。彼女がマイスター伯爵家に持っていく荷物はトランクケース2つ分だけだった。一つは今自分が持っている全ての服。もう一つには祖父の形見の品や、2人の思い出の写真。そして数冊の本。「それにしても、持っていく荷物がたったこれだけだったなんて……こんなことなら1日もあれば準備なんて十分だったかしら?」そこまで考えていたとき……――コンコンがらんどうな屋敷の中に、ドアノッカーの音が響き渡った。「多分、ルノーね」イレーネは椅子から立ち上がると、玄関へ向かった。扉についているドアアイを覗き込むと、やはり訪ねてきたのはルノーだった。「いらっしゃい、ルノー」イレーネは扉を開けた。「良かった……今日はちゃんといてくれたんだな? 本当に昨夜は驚いたよ。訪ねても君がいないんだものな。驚きで心臓が止まるかと思った」「大袈裟ね、ルノーは。どうぞ入って」クスクス笑いながらイレーネはルノーを屋敷に招き入れた。「それで、俺に大事な話って何だ? いや、その前に昨夜一体何があったんだ? どこにいたんだよ」椅子に座るなり、ルノーは矢継ぎ早に質問してくる。「ルノーはせっかちねぇ。はい、まずはお茶でもどうぞ」イレーネは淹れたての紅茶をテーブルに置くと、自分も向かい側の席に座った。「あ、ああ。ありがとう」気を落ち着かせるためにルノーは紅茶を口にする。「ルノー。あなたは私の幼馴染であり、弁護士で

    Last Updated : 2025-02-11
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   30話 説得

    「け、結婚て……ウッ! ゴホッ! ゴホンッ!!」あまりにも驚きすぎたルノーは紅茶を飲んでいたことも相まって、激しく咳き込んだ。「大変! 大丈夫? ルノー!」イレーネは慌ててルノーの背後に回ると背中をさする。「イ、イレーネ……結婚するって……どういうことなんだよ?」ルノーはイレーネの手首を握りしめた。「ルノー」「何だ?」「もう咳は治まったの?」「ああ、お陰様でな。だから話を聞かせてくれ」「ええ。分かったわ。でもその前に……」「何だ?」「手、離してもらえるかしら?」イレーネはにっこり笑った――**――30分後「つまり……君はメイドの求人を見て、マイスター伯爵家を訪れたものの、そこの当主に見初められて、結婚することになったと言うわけか?」青白い顔で、左手を額にあてたルノーがため息をつく。「ええ、そうなの」「その話、嘘じゃないんだろうな?」ルノーはニコニコと笑みを浮かべているイレーネの目をじっと見つめる。「ええ、嘘では無いわ。その方は私にこう、言ったもの。『君は完璧な存在だ!』って」リカルドに言われた言葉を少々脚色して伝えるが、ルノーは明らかに不審な目を向けてくる。「どうも怪しいんだよな……弁護士の俺に嘘はつかないほうがいいぞ?」「ええ。分かっているわ。だって嘘なんかついていないもの」そう、イレーネは嘘はついていない。ついていないが、本当の話でもない。「……分かったよ。それでイレーネは出会ったばかりのマイスター伯爵の求婚を受けたって訳だな? しかも、すぐにでも結婚する約束をして?」「そうなの。私が借金を抱えていて、住む場所を失ってしまうところだと説明したの。そうしたらとても心配してくれて、すぐにでもマイスター伯爵家に嫁いでくるように言われたのよ。だから今日は荷物整理と屋敷を処分する為に帰って来たの」「イレーネ! ちょっと待ってくれよ! もしかして、その伯爵と結婚するのは住む場所が無くなるからなのか?」ガタンと音を立てて席を立つルノー。「落ち着いて、ルノー。まずは座ったら?」「……」不満げな表情を浮かべながらも、ルノーは席に座った。「とにかく、もし結婚の決め手が住む場所を失うからだって言うならそんなこと心配する必要は無い。俺の実家で暮らせばいいじゃないか? 父さんも母さんもイレーネのことを歓迎するぞ?」「ル

    Last Updated : 2025-02-12
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   31話 幼馴染の後悔

     イレーネの古びた屋敷に美味しそうなクッキーの香りが漂い始めた頃……「イレーネ、頼まれていた家具を全てリビングに移動しておいたよ」作業を終えたルノーが台所にいるイレーネの元へやってきた。「まぁ、ありがとう。ルノー。お仕事もあったのに、力仕事までさせてしまって。でも丁度良かったわ。今クッキーが焼けた頃なのよ」「うん、美味しそうな匂いだな……荷運びはそれほど大変なことじゃ無かったさ。何しろ、この屋敷には家財道具はもう殆どなかったからな。昔は……もっと色々な物があったのに」しんみりした表情を浮かべるルノー。「ルノー。あなたがそんな顔すること無いわ。確かにこの屋敷にはかつて、色々な物に溢れていたけど……。でもかえって思い出の品を残してここを去る方が寂しさを感じるじゃない?」「そうか、やっぱり寂しさを感じるんだな? だったら『デリア』に行くのは考え直せよ。俺の実家で暮らそう。それで……モゴッ!」途中でルノーの言葉は塞がれる。何故ならイレーネが焼き上がったクッキーをルノーの口の中に押し込んだからだ。驚いて目を見開くルノーにイレーネは笑う。「はいはい、話はそこまでよ。どう? クッキーは美味しい?」口の中にクッキーが詰まったルノーは返事をすることが出来ずに、コクコクと頷く。「フフフ……それなら良かった。それでさっきの話だけど、答えは『いいえ』よ。私はマイスター伯爵様と結婚するの。これはもう決定事項よ。第一婚約者がいる幼馴染の家で暮らせるはずはないでしょう?」「だから、まだ彼女は婚約者じゃないって! 上司が勝手に自分の娘を俺の婚約者にしようとしているだけなんだよ!」クッキーをゴクンと飲んだルノーが反論する。「そう? でも少なくとも彼女はそんな風には思っていないようだし、何より2人はお似合いに見えるわ」「お、お似合い……」その言葉にショックを受けるルノー。「とにかく、私がマイスター伯爵と結婚することは決定事項なの。この屋敷を売って借金を返すこともね。だから信頼するルノーにお願いしているのよ」イレーネはじっとルノーを見つめる。「う……わ、分かったよ! 分かったから、そんな目で見るなって。全く……仕方ないな。俺の知り合いの不動産屋を当たって、できるだけ高く売却してもらえるように頼んでやるよ」髪をかきあげながらため息をつく、ルノー。「本当? ありが

    Last Updated : 2025-02-13
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   32話 イレーネの旅立ち

    ――翌朝「う〜ん……よく寝たわ……」目覚めたイレーネはベッドの上で伸びをした。「それにしても……いよいよ、本当に何も無くなってしまったわね」この部屋には、もはやイレーネが眠っていたベッドしか残されていなかった。残りの家具は全て昨日、ルノーの手によって階下のリビングに運ばれていたからだ。「さて、起きましょう。最後に何も忘れ物が無いか色々見て回らないとならないものね」イレーネは室内履きに足を通すと、ベッドサイドにかけておいた洋服に着替え始めた。**「うん、美味しい。我ながらクッキー作りの天才ね」朝食代わりにクッキーを食べながらイレーネはウンウンと頷く。イレーネは料理もお菓子作りも、この屋敷で働いていたボビーという名のシェフに教わった。自分が屋敷を去った後、食事に困らないようにと彼が直々にイレーネに教えてくれたのだった。「ボビーさん……この屋敷が無くなったことを知ったら、ショックを受けるかしら……」少しだけ感傷に浸りながらクッキーを完食すると、屋敷の中に忘れ物が無いか見て回った。「見回り完了、いよいよこの屋敷を出る時がやってきたわね」扉を開けて外に出ると、鍵をかけるイレーネ。「後はルノーに言われたとおり、鍵を郵便受けに入れておけばいいのね」屋敷の鍵を紙でくるむと、郵便受けに入れた。「これで……このお屋敷ともお別れね」改めて、イレーネは屋敷をじっと見た。彼女がこの屋敷にやってきたのは5歳の時。母親は出産のときに亡くなり、父親は5歳のときに病気で亡くなった。家族を失ったイレーネを引き取ったのが、父方の祖父だったのだ。以来15年間、ずっとイレーネはこの屋敷で暮らしてきた。その生活も今日で終わる。「15年間、お世話になりました」ペコリと屋敷に頭を下げると、2つのトランクケースをガラガラとひっぱりながら、イレーネは辻馬車乗り場を目指した――**** 10時半――イレーネは駅舎に到着すると、男性駅員に声をかけた。「あの、恐れ入りますが……電話をお借りできないでしょうか?」田舎町の『コルト』では、まだまだ電話が普及していない。そこでこの町に住む人々は駅で電話を借りていたのだ。「ええ、よろしいですよ。どうぞ中に入ってお使い下さい」「ご親切にありがとうございます」イレーネはお礼を述べると駅員室に入り、壁に取り付けた電話の受話

    Last Updated : 2025-02-14
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   33話 食い違い

    「はい、ではイレーネさん。お待ちしておりますね。ですが、どうかくれぐれも慌てず、落ち着いて……ゆっくりお越し下さい。……はい、では失礼いたします」チン……イレーネとの電話を終えたリカルドは顔面蒼白になっていた。「た、大変だ……! こうはしていられないぞ……!!」リカルドは部屋を飛び出すと、脱兎の如くルシアンの部屋を目指して駆け出した――****「何だって!! イレーネ嬢が今日、やってくるだって!!」書斎で仕事をしていたルシアンが驚きの声を上げる。「はい、そうなのです。たった今、私の仕事部屋に直通で電話がかかってきたのです」その言葉にルシアンの眉が上がる。「……ちょっと待て。何故、お前の部屋の電話が鳴るんだ?」そしてルシアンは自分の机の上に置かれた電話に視線を移す。「え……? それは……私が帰り際にイレーネさんに電話番号を書いたメモを渡したからですが……?」「だから、何故お前の電話番号を教える? ここにだって……電話があるじゃないか」ルシアンは自分でも良く分からないが、何故か電話がリカルドの部屋にかかってきたことが気に食わなかった。そして、ルシアンの苛立ちにピンとくるリカルド。「ルシアン様……もしかしてイレーネさんにこちらのお部屋の電話番号をお伝えしたほうがよろしかったでしょうか?」「……いや、そういうわけではないが、大体お前は俺の専属執事だろう? ここで仕事をすることが多いのだから、この部屋の電話番号を教えたほうが良かったのではないか?」「あ……言われてみれば、確かにそうでしたね。このお部屋で電話が鳴っても、出るのは私ですからね。大変失礼いたしました」リカルドはこれがルシアンの言い訳だということに気付いていたが、あえて気付かないふりをした。「あ、ああ。まぁ……そういうことだ。だが、イレーネ嬢が本日この屋敷へやって来るなら……まずは使用人全員を集めて、大事な客人が来ることを伝える必要があるな」「ええ、そうですね」頷くリカルド。「では、リカルド。早速この屋敷にいる使用人全員をホールに集めるのだ! いますぐにな!」「はい!」(そ、そんな……! ただでさえ忙しいのに……それを使用人全員をホールに集めるだなんて……!! 無茶振りだ!!)返事をしながら、心の中でリカルドが悲鳴を上げたのは言うまで無い――****一方その頃

    Last Updated : 2025-02-16
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   34話 親切な人々

     午後4時半――イレーネは『デリア』のホームに降り立った。「う~ん……快適な汽車の旅だったわ。やっぱり二等車両は座り心地が違うわね。切符を手配してくれたリカルド様に感謝しないと」帽子をかぶり直したイレーネは、ホームに停車している汽車を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。「でもこんな贅沢、私のような者には身の丈が合わないわね。1年後、ルシアン様と離婚したら質素倹約に励まなくちゃ」結婚生活が始まる前から、既に離婚後のことを見据えていたのだ。「さて、では行きましょう」イレーネはキャリーケースを引きずりながら、改札を目指して歩き始めた。**「う~ん……迂闊だったわ……そう言えばこの駅は階段を上らないと、外に出られなかったのよね……」じっと階段を見上げるイレーネ。手元には二つのキャリーケース。とてもイレーネの細腕では二つの荷物を持って、上ることは出来ない。「……仕方ないわ。一つ残しておいて、階段を上るしかないわね……」ため息をついたとき、背後で声をかけられた。「お困りですか? よければ荷物をお持ちしますよ?」「え?」その声に振り向くと、白髪交じりの男性駅員が立っていた。「よろしいのですか?」「ええ。ちょうど駅員室に戻るところだったので」そして男性駅員はキャリーケースを2つとも、持ったのでイレーネは慌てた。「あ、あの。一つだけで大丈夫ですので。後の一つは自分で持ちます」「いいえ、見たところ女性が持つには大きすぎる荷物ですよ。私が持つのでどうぞ階段を登って下さい」「そうですか? それではお言葉に甘えて……ご親切にありがとうございます」イレーネは礼を述べると、階段を登っていく。そこを後ろからキャリーケースを持った駅員がついていった。「荷物を運んで頂き、ありがとうございました」階段を登り終えると、イレーネは礼を述べた。「いいえ、お役に立てて良かったです」「あの……図々しいお願いとは思いますが……もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」「はい、何でしょう?」「電話をお借りしても良いでしょうか?」イレーネは恥ずかしそうに駅員に尋ねた――**** 駅を出ると、イレーネはため息をついた。「それにしても、リカルド様が電話に出られなかったのは残念だったわ……というか、何故誰も電話に出なかったのかしら……?」イレーネは何も知らなか

    Last Updated : 2025-02-17
  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   35話 何も知らない者

     17時少し前に、イレーネを乗せた辻馬車がマイスター家に到着した。「お客様、マイスター家に到着しました」男性御者がイレーネに声をかけてきた。「はい、どうもありがとうございま……」そこまで言いかけて、ハタとイレーネは気付いた。(そう言えば、つい先日貴族の御令嬢に言われたばかりだったわよね……)イレーネの脳裏に赤い髪の女性……ブリジットの言葉が蘇る。『ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?』(そうよね、私なんかが正面口から入ってはいけないわよね。現に昨日、このお屋敷を出るときもフードで顔を隠したくらいなのだから)「あの、お客様……どうなさいましたか?」考え事をして黙り込んでしまったイレーネに御者が遠慮がちに声をかけてきた。「いえ、何でもありません。あの、恐れ入りますが馬車を裏口に回していただけますか?」「裏口ですか? ええ、よろしいですよ。それでは裏口に周りますね」男性御者は手綱を握りしめると、馬車の移動を始めた――**** マイスター家のフットマンとして働き始めて、ようやく1年を迎えようとしていたジャックは今とても忙しかった。「全く……お使いから戻ってみれば、誰もいないんだからな……こんな一番忙しい夕方時だっていうのに。皆一体どこにいるんだよ」ブツブツ文句を言いながら、ジャックは入り口にほど近い部屋で備品の整理をしていた。「あ〜なんだ、この棚……ホコリが溜まっているなぁ。これじゃ片付けられないじゃないか」その時――「あの〜……すみません。どなたかいらっしゃいますか?」女性の声が聞こえてきたのでジャックは部屋を出た。すると入り口の前で立っている一人の女性が目に入った。その女性とは……イレーネである。「え〜と……、どちら様です?」ジャックに尋ねられたイレーネは少しだけ悩んだ。(そう言えば、この屋敷の人たちに私のことは話してあるのかしら……万一の為に、あまり詳しい話はしないほうが良いかもしれないわね)そこで、簡単な自己紹介をすることにした。「はい、私は本日よりこちらでお世話になることになりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」「イレーネ……?」見たこともない女性を見て、首を傾げるジャック。(う〜ん……見たところ

    Last Updated : 2025-02-18

Latest chapter

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   126話 照れるルシアン

    ――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   125話 ホテルでの会話

     高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   124話 このことは内緒に

     リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   123話 出てきて下さい

    ――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   122話 私が行ってきましょう

    「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   121話 イレーネとベアトリス

     イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   120話 意外な場所で

     あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   119話 ほんのお礼です

     2人で庭の後片付けの作業を開始して約1時間後――「ありがとうございます、お陰様ですっかりお庭が綺麗になりました」イレーネがケヴィンに礼を述べた。「いえ、いいんですよ。地元住民として協力しただけですから。それではそろそろ帰りますね」ケヴィンが軍手を外し、帰り支度を始めるのを見てイレーネは声をかけた。「あ、そうですわ。少し、お待ちいただけますか? すぐに戻りますので」「え? ええ、いいですけど?」イレーネはケヴィンをその場に残すと、いそいそと家の中に入っていった。そして数分後、トレーを手にして戻ってきた。「これ、ほんのお礼です。どうぞ」トレーの上にはグラスに注がれた飲み物に、スコーンが乗っている。「え? 頂いてもよろしいのですか?」「はい、これはミントティーです。疲れた身体にいいですよ? こちらのスコーンも私のお手製です」するとケヴィンが笑った。「アハハハハッ。大丈夫ですよ、僕の職業をお忘れですか? 警察官で体を鍛えていますからこれくらい、どうってことないです。でも折角なのでいただきますね」「ええ。どうぞ」ケヴィンは早速グラスを手に取ると、ミントティーを口にした。余程喉が渇いていたのか、そのまま一気に飲み干しとグラスをトレーに戻した。「さっぱりした味で美味しいです。ありがとうございます。あの、スコーンはお土産に頂いて帰ってもいいですか? 家に帰ってからの楽しみにしたいので」「それでしたらもっと持って行って下さい。まだ沢山ありますので。今取ってまいりますね」「い、いえ。何もそこまでして頂かなくても……」しかしイレーネは最後まで聞かずに家の中に入ると、今度は紙袋を手に戻ってきた。「どうぞ、ケヴィンさん。5個差し上げますわ」そして笑顔で差し出す。「え? そんなに頂いてもいいのですか?」「ええ、勿論です。ケヴィンさんには今までにも色々お世話になっておりますから。どうぞお持ちになって下さい」「……どうもありがとうございます。では、遠慮なく頂きますね」顔を薄っすら赤らめながらケヴィンは受け取った。「それでは僕はこの辺で」「はい、今日は本当にありがとうございました」ケヴィンは馬にまたがると、イレーネを見つめる。「イレーネさん」「はい。何でしょう?」「今日は……一緒に働けて楽しかったです。それでは失礼しますね」「え?

  • はじめまして、期間限定のお飾り妻です   118話 嵐の後始末

    「……本当に、今夜は戻らないつもりか?」夜空の下。車の前でルシアンは真剣な眼差しでイレーネに尋ねる。「はい、戻りません。今夜の嵐でせっかく耕してしまった畑が駄目になってしまったので明日、作業をしたいのです」「だが……もしまた天候が……」「それならご安心下さい、ほら。空をご覧になって下さい」イレーネに言われて顔を上げると、空には満天の星が輝いている。「……綺麗な夜空だ」思わずルシアンがポツリと呟くと、イレーネは笑顔になる。「ね? これだけ星がでているならもう嵐の心配はありませんから」「確かにそうなのだが……なら、俺も今夜ここに宿泊しようか?」ルシアンの脳裏に、涙を浮かべて恐怖で震えているイレーネの姿が浮かぶ。あんな姿を見せられて、ここに1人で残すことがためらわれた。「ベッドは一つしかありませんけど……なら、ルシアン様がお使い下さい。私はソファでも床でもどこでも構いませんから」「何だって? 女性にそんなことをさせるわけにはいかない」慌てて首を振るルシアン。「ですが、私だって雇い主であるルシアン様にベッド以外では休んでもらいたくはありませんわ」「雇い主……」イレーネの言葉に、何故か壁を感じるルシアン。(やはり、イレーネにとって……俺は契約相手としかみられていないのだろうな)じっと見つめるルシアンにイレーネは首を傾げる。「どうしましたか? ルシアン様」「いや、何でも無い。……分かったよ。もう天気は大丈夫そうだからな。帰るよ」ルシアンは車のドアを開けると乗り込み、再度イレーネに尋ねた。「イレーネ。あと何日程でマイスター家に戻れそうなのだ?」「そうですね……3日以内には戻れると思います」「分かった。とにかく……戸締まりだけはしっかりするんだぞ?」「ええ。大丈夫ですわ。ルシアン様も気をつけてお帰り下さい」ニコニコ笑みを浮かべるイレーネ。「……ああ、それじゃあ」ルシアンはイレーネに見送られながら車で走り去っていった。「……本当に、車というものは早いのね……」あっという間に地平線に消えていったルシアンの車を見ながらポツリとつぶやき……欠伸をした。「ふわぁあああ……眠くなってきたわ。今夜はもう休みましょう。明日は朝から忙しくなりそうだし」そしてイレーネは家の中に入ると、戸締まりをした――****――翌朝パンにチ

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status